昭和42年8月29日 朝の御理解
 

 これは人間の通有性とも思われる信心の中に、喉をも通れば熱さを忘れる、というそういう我情とでも申しますかね、その信心が堕落して行く元と云うか、そういうようなものが私共の心の中にいっぱい有ると云うことでございます。本当にあの広大なおかげを頂いてと云うその感激が持ち続けられないのが人間と云うても良い位でございます。
 そこにあの信心の修行であり、信心の精進が必要になって來るのでございますね。おかげを受けなけれならんと何かこう何かが起こって参りますと一生懸命気持ちが出ましたり、又おかげを受けておる実感の時には本当に有難くてお礼参拝が出来ておるにも拘らず、そのまあ云うなら平穏無事と云うと段々おかげを頂いて参りますと、喉元通れば熱さを忘れると云うような感じになってくる。
 教祖の神様はおかげを受けた時のことを忘れなければ結構であると云うようなお言葉を下さっておりますですね。
 信心がですね、おかげを受けた時のことを忘れなければ、その信心は立派だと云うことです。ところがそれが段々段々薄うなってくるのが人間なんです。通有性、たったそれだけのことでもうお参りはしませんばってん忘れません。もう既にお参りはしませんばってんと云うところにですね、もうおろそかにしておると云うことが分かるです。だから、あのお参りしよりまっせんけれども、あの時助けて頂いたことは忘れません。それではいかんのですね、ね。
 忘れなければ結構であると仰るのは、そん時のいわば生々しい喜びと云うか、感激と云うものを持ち続けて信心が続けられておると云うことですね。
 昨日或方がお参りして来て、まあ大変広大なおかげを頂いた方なんですけど、ここ一ヶ月ばかり御無礼しておる。それが昨日親子で参ってきております。それこそ本当に人のたまがる様なおかげを頂いておるのでございます。
 もう本当に火の付いたように有難いと云うて信心を親子揃ってしておったのでございますけれども、それが段々こうおろそかになってきて、或御信者さんが夏の御大祭のご案内を持って行ったところが、やっぱり御大祭にもお参りして来ていない。
 そしてその娘さんが言うことが、おっちゃま、まあお参りはしよらんばってん、お気付を頂きませんから、頂くごつなったらお参りしますとそういう様なことを言うたと云うのです。「    」誰が見ても聞いても本当に神様のお働きと云うのは何と素晴らしいことじゃろうか、と。あん時のことを思うたらとてもとても合楽にお参りせんてんなんてんち、もう本当に思われないのでございます。まして御大祭にお礼参拝しないなんて言え
ないのでございます。いわば義理じゃないのですけれど、おかげを受けた当人はそんなことを言いよります。お参りせんけどお気付頂かん。それはお参りしなければ楽ですはね。時間も掛かりませんし、お金もいりませんし、お参りする時間だけ早く起きどんするなら、その日ころっとよけいに仕事が出来ますし。ところがその最近になって、四~五日前参って來た。私はもういっちょん忘れません。まあだ私だん・・?を頂いてから神様を拝みよります。とこういうてお参りされたんですけれども、娘さんが今までそんなことなかったのに、胃が悪いと言うて胃が痛むと言うて、ご飯がいけなかったり、食べられなかったりいけん様になってきた。云うならばお気付と感じたのかも分かりません。
 それでまあ昨日揃って参って来ておりますから、そこんところを又気付いて見えたのかもわかりませんけれども、今までの様なお参りは出来ませんけれども、忘れてはおりませんと云う。まあ意志表示をされたんだとこう思う。
 その事を神様にお礼お届けさせてもらいよりましたら、その皆さんに聞いて貰おうとしているところを頂くのです。
 おかげを受けた時のことを忘れなければ結構である、とね。そう信心がですね、本当にあの忘れてはいません、参りはせんばってんそれとは違うね。おかげを受けて頂きながら喜びを感激をそのまま次の信心にこう続けられておると云うこと。いやこれは、信心を続けておられましても、続けておりましても同じ様なことが云える場合もあるのです。いわゆる生々しい何の感激も喜びもないと云う様な信心が、只こう一つ惰性が信心のお参りを続けておると云うことでは詰まらん話でございますね。そこにやはり修行が必要であり、そこに信心の精進が成されなければならない。
 私はそれはどういう意味か分かりませんけれども、私の頂いた感じなのですけれど、その事をお礼お届けさせて頂きよりましたら、ネグリジェと云うことを頂きました。ネグリジェと云うのはどういう物ですか。女の方の寝巻きのことですね。寝巻姿なんかというのは、女の人は誰でも見せるものではないのですが、云うならばですね、いわゆる私共が信心させて頂きよりましてですね、誰も見ていないから、人がいないから、ね、人が見ていないからと、そこで信心を落としたり信心でないことを平気でしたり、言うたりしている時には、もう既に神様のいわば喜びとかおかげ信心の感激と言った様なものを、もうなくしている時だと言う風に私は感じましたです、ね。
 信心させて頂く者は、むしろ表より裏を大事にせよ、ね。
 口に真を語り、心に真なきことと、こう仰るがね、自分の信心の程度と云うものをです、口には成程良いことを言いよるけれども心には真も何もないと云う自分を発見したら、もういよいよ自分の信心の低下と云うか、自分の信心のつまらないと云うことを悟らねばいけません。形においつつ力表してはいないけれども、心での思いが十も二十もあると云うことを頂かねば信心の喜びに浸っているとは云えません。お徳を受けた方達なんかはね、それをそういう表現で云うておられます。
 表には例えば、木綿のものを着ておっても、裏にははぶたいの裏が付けて有ると云う様な信心。そうでもない様であるけれども裏が素晴らしい。そうでもない様であるけれども、心が美しい。そういう私共は信心、いわゆる影と日向を一様にしていくだけではなくて、むしろ日向の所よりも影の所を大事にしていくと云う生き方、であって初めて神様を知っておる、神様を信じておると云えれる信心が、私は続けられておるとこう思うのです。段々ですね、そういう様なごまかし半分の信心が続けられておる様になりますとですね、本当にそのお気付をお気付と悟られないようになるのですよ。それが恐い。
 ごまかし半分と云うとおかしいですけれども、いわゆる口に真を語りつつ心に真のなきこと。表はいかにも、立派なことを言うたりしたりしておるけれども、蔭ではあれがと人から指を指されるような事を平気でやっている様な時にはです、もう貴方の信心はいよいよそれはもう本当に堕落していると云うことを知らなければいけませんね。
 何故かと云うと、そういう堕落をしている時にはですね。本当にあのおかげを落とす前提と云っても良いかからなんですね。
 或浜辺に老夫婦の漁師があった。おじいさんは何時も漁に出て細々と生活をしておる。おばあさんはその家を守って居るというのである。ところがおじいさんがある日、おじいさんが漁に出たところが、なんぼ網を入れても網を入れても、魚一匹かかってこない。ああ今日はいよいよ不漁、今日は駄目だ、もう今日は帰らせて貰おう。まあこれが最後だというて最後の網を入れた。ところが今迄見たこともない、聞いたこともないと言った様なその魚がかかって来た。こう引き上げてきたところが金色に光っておる。しかも船縁までこう引き上げてきたところが、なんとそれがそのものを言う。「おじいさん、おじいさん、私をもういっぺん海に放って下さい。助けて下さい。」と言う。
 おじいさんは、こんな珍しい魚は惜しいと思ったけれども、そういう風に言っておる魚のことを思うと可愛そうになってから放してやった。その時にその魚が申しました、ね。「おじいさん、帰ってごらんなさい」そのおじいさんに言った。おじいさん、なにかそのあなたは欲しいものはないか、とこう言う。欲しいものと言うて別に何にも、まあこうやって日々細々ながら生活は年寄り二人が出来ておるおだから別に何と云うて望みはせんけれど、ふっと思う。うちを出るときおばあさんがつくねんとして椅子に腰掛けておる前に水瓶があった。その水瓶が割れておった。ほんに水瓶が割れておばあさんが不自由しておると云うたから、まあいるというなら水瓶が欲しいなあと。その魚が、おじいさん帰ってみてごらんなさい。きっと見事な水瓶があるでしょうと、こう。何をいうだろうか。不思議な魚だ。不思議なことがあったもんだと云うて帰った。ところがおばあさんが、きれいなきれいな水瓶の前に座っておったと、こう言う。見事な水瓶がおばあさん、実は今日こんな不思議なことがあったのだと。おばあさんが言う。おじいさん、あなたは欲のない人ですな、どうして何か欲しいものはないかと言うたなら、どうしてそのお金を沢山欲しいと言わなかったんですか。ほんにそう言やあそうだなあ。又翌日漁に出た。ところがその魚が浜辺にまたやって来てから、「おじいさん昨日はどうも有難う。どうでしたか」と、「お前が言う通りに立派な水瓶があった。」「そうでしょう。」「ところが、おばあさんが言うたんです。水瓶位じゃつまらぬ。折角そういう様な不思議な力を持っている魚ならば、その魚にね、沢山のお金が欲しいと何故言わなかったと言うておばあさんが言うた」と「そうですか。なら帰って見てご覧なさい。きっと沢山なお金があなたの家にあるでしょう」と。今迄なぎておった海が少しこう小波が立ってきた。帰ってみると成るほど、おばあさんがそのお金に埋まる様にして沢山のお金の中に座っておった。もうおばあさんがにこにこして喜んでおると思うたところが「おじいさんおじいさん、もうあんたばかりはいよいよ欲のない人ばい。お金ばっかりあってもどうしますか。ね、立派なお家が欲しい。家が欲しいと何故言わなかった。」「言われてみればそれもそうだな。かねて家が欲しいと言やあよかった」とこういう訳である。翌日また海に出た。例の通りに魚がやって来た。「どうでしたか。おじいさん。」「沢山のお金があったけれども、おばあさんが又こう言ったと魚に話しますと魚が申しました。「おじいさん、帰ってみてごらんなさい。きっとあなたが帰られたら、お家が金殿玉楼の様なお家が建て上がっておるでしょう」と、こう言った。帰って見たら、成程金殿玉楼の様なお城の様なお家が建っておった。おばあさんが又言うた。お金がいかにあっても、ね、どんなにお家が立派になっても、これに召使がなかったらどうしますか。沢山の召使が欲しいと明日は言うて下さい。と言うわけである。翌日はまた海へ出た。昨日は小波であった海が少し荒れ模様になっていった。魚にその旨を告げると、魚が申しました。「おじいさん、帰って見てごらんなさい。沢山の召使があなたを待っているでしょう。」と、こう言うた。帰ったところがおばあさんが沢山の召使にかし使いながら、おじいさんの帰りを待っておった。そしてそのおばあさんが言うことには、「おじさん、そういう不思議な力を持っている魚なら私共の家来になる様に頼まれたらどうですかね」「それはもう結構ですな」お金はある、家も出来た。召使も沢山。しかもそういう不思議な力を持っておる魚を自分の召使になってくれと言うのである。海に出たところが、遠くから海鳴りの音が聞こえてきた。今まで小波、少し荒れ模様と思っていた海が何とはなしに、こう波立ってきた。その魚が現れた時に、おじいさんがそのことを申しましたら、魚は一言も返事もしなかった。そして船縁で、船縁を自分の尻尾で叩きながら海の中へ消えて行った。とたんに海はもものすごい海鳴りと同時に荒れ狂う様に海が荒れてきた。帰ってみた。ところが傾いたような昔の家に割れた水瓶の前におばあさんがしょんぼり座っておる姿だけしかなかったというお話なのです。
 私はこれを七、八年も前だったでしょうか、小学校の読本でこう云うおとぎ話とも、物語とも分からない様な話を読ませて頂いてからりこうだ?と私は思うた、ね。信心させて頂いて段々おかげ頂いて、もう大抵欲の突っ張ったことをです、お互いが願っておる訳なんです。それでも神様は云うことを聞いて下さりよる。けれども自然はそこに少しづついる氏子に対するお気付けというか、警鐘とと云うか最後の警鐘乱打だというか。そういう事では危ないぞ、そういうことでおかげを?と言った様なものを自然の中から聞き取らせて頂かなければならんのだけれども、増長満々の時にはそれが聞こえない。そして本当にあっと云う間におかげを落とさなければならない様な結果すら生まれて來るのであります、ね。小波が立っておることはなかろうか。少し海が黒ずんで見える様なことはなかろうか。いや、もうずぐそこに海鳴りが聞こえておるようなことはなかろうか。ここに本気でお互いが改まらせて貰い、本気で気付くことに気付かせて貰う。信心とは上辺よりもね、蔭を大事にするものだと、形よりも内容を立派にすることなんだ。本当にあの時のあなたのことを思ったら、とてもじっとしておられないのだね。そういう信心をです、私共が頂いて行きよりませんと確かにおかげだけは受けますから、おかげを受けておるからと云うて安心ではありません。
 それこそ、おえばびびんちょこの様な願いを次から次へと立たせて頂くような心を持っておるのが人間、ね、ですから私共が生き生きとしたその喜びに、生き生きとした有難いと云う心に、おかげが願わんでも頼まんでも頂けるのならまだですけれども、そういう信心の喜びと云うのが段々段々さめて行きよるにも拘らずおかげは受けて行きよるなら、これは私は危ないと思うね。お気付をお気付けと気付かない様になったらもう信心もおしまい。
 どういう時にそうであるかと云うとです、私共の信心と云うものを、内容と云うものを見た時です、心の中に何とはなしにおかげを受けた時の喜びと云うものが残っておる。生き生きとした喜びが、それがお参りであり精進であると云う様な状態である時なら間違いないのであるけれども、精進すると云う意味もないね。尚更喜びもない。それが只惰性の様に信心が続けられておるだけであるとするならばです、自分はこりゃここで本気で一修行させて貰うて信心の喜びを取り返さなければと云う様な気持ちにならなければいけん。ふと自分の吐いた自分の言葉にびっくりする様なことがある。何か自分がよかとばしにあげなことを、こう人を見る様な状態です。それこそ自分の召使にでもという様な気持ちでですね、ものを言うておったり、態度を取っておったりする様なことはなかろうか。人を軽う見たらおかげはなしと仰るが、人を軽う見ておる様なことはなかろうか。危ない危ないね。
 第一人を軽う見たり物を軽う見たりする時には、もう私はそれこそ信心は抜け始めておるのだと私は思うね。もうどの人を見ても、この人を見ても自分より素晴らしく見える時ね。どんなものでもお粗末御無礼がされない様な気持ちの時、そういう時であって私は始めて信心がしっかり進んでおる時であり、しっかり信心を頂いておる時と云うことが言えると思うのですよね。 どうぞ。